各学年とも教科書の最後の2,3課を残して進級した。 授業の速度は乗り物にたとえると鈍行、各駅停車、特急待ちで停車?分。中学校で修得するべき内容の2,3割を積み残して高校に進学する。
東大進学率のNo.1を誇る高校での英語の授業は新幹線の超特急、 いやジェット機かもしれない。
週5時間のうち、リーダーは3時間、グラマーは1時間、サイドリーダー1時間。予習は家庭、授業時間で復習、そんな雰囲気だ。 孤軍奮闘、こつこつ単語を辞書で調べているようでは落伍者になりかねない。授業に追いつく遅れっ子なしの気分だ。
大学の入試に英語で失敗したと思っている。別にこれといって、大学で勉強したいこともない。 でも、もう一度、来年挑戦かなぐらいの気持ちで、机に向かう日々ではある。そんな時、「無料英文タイプを教えます」の看板をみた。遠くはない。気分転換のために通いだす。 当方一流外国商社の新聞広告に応募し採用される。世界一といわれる銀行だった。成り行き任せも悪くない。
10年間の英語の書類に囲まれたオフィス生活、要求される英語力は高校で習う英語で十分だ。
でも流暢な英語を話したくて、英会話学校に通い、信者でもないのにネイティブのいる教会に出入りした。効果はなかったが。
家から歩いて3分のところに英語教室があった。ネイティブと日本人がペアを組んで小学生に英語を教えていた。低年齢のときからネイティブの英語を聞かせたいと考えていたので、早速4歳になる娘を連れて入塾を申し込む。 小学生だけの教室であったが、親つきなら、ということで受け入れられた。1年後、その教室の先生一家が他所に引っ越され、友人とともにその教室を引き継ぐ。
(「アルバム」のページで写真をご覧になれます)
しぶしぶ引き受けた教室であったが、次第に熱を入れはじめる。40種類の手作りのビンゴ、オクスフォード出版の教材を中心に、ネイティブとペアを組んでクラスを運営する。あっという間に200名の小学生であふれた。毎年クリスマスには座間や厚木の米軍基地の中でアメリカンスクールの子供たちと合同クリスマス会を開いた。 また児童英語のエキスパート、キャミー・コンドンさんを東京から招いて、地域の小学校でお楽しみ会を開いた。
米軍基地の渉外部をたずね、クリスマス会の開催の希望を述べたところ即座に「この基地は日本の皆様のためにあります、どうぞお使いください」といって、将校クラブでのクリスマス会を快く許可してくださった。 今でもその決断に感謝している。また地域の小学校の校長先生の英断も忘れられない思い出である。
中学生になる生徒たちの希望を受け入れて、中学生の教室を始める。
教科書を中心に手作りの教材を使用する。発音を発音記号で教える。
アルファベット70音の基本がこのころ出来上がる。
教科書の英文を日本文にしたものを、英文にする作業をしながら文法、語法を指導する。
常時各学年30名を越す生徒の在籍、二人、三人と続く兄弟姉妹の入塾、巣立った生徒たちが高校を終えて大学へ進学などを見るにつけ、まあまあの成績と我が塾を自己採点している。
(「私の塾風景日記」のコラムでもご紹介しています)
働き続けて30年、このまま人生を終わらせたくない。かねてからの希望であった海外生活を実地に移す。
行き先はオーストラリアのパースに決める。理由は単純、下見のためのたった1週間の旅行が私たち夫婦をパースの虜にした。
私の英語が試されるときが来た。日常会話の表現力の貧弱さとネイティブに通用する発音にはまだ足りない私の英語力が判明する。英語の音に取り組む。永住を考えていたが、オーストラリア政府のビザの改正、その他の2,3の理由があって滞在10年で帰国した。
(「アルバム」のページで写真をご覧になれます)
(「アルバム」のページで写真をご覧になれます) オーストラリアを引き上げた要因はいくつかあったが、そのひとつに幼児英語教室の再開があった。帰国して幼児の英語教室を開くように友人からの強い勧めがあったのもその一つ。その気になったわけではないが、10年間の休暇は、また活力を与えてくれた。
帰国後すぐに再開した児童英語教室は思うところあって1年足らずで閉鎖する。しかし、その教室では、私の考えを短期間に具現することが出来て幸いだった。YESメソッド:アルファベット70音で半年指導した生徒、小学生1ー4年の12名が4本の英語劇、桃太郎さん、赤頭巾ちゃん、3匹の子豚、ライオンとねずみを演じてくれた。
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